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「悪御所」の綽名で呼ばれた足利義教は苛烈な側面を有しており、些細なことで激怒し厳しい処断を行ったと言われる。主な例としては以下のようなことがある。 永享2年、東坊城益長が儀式の最中ににこっと笑顔を作った。義教は「将軍を笑った」と激怒し、益長は所領を没収された上、蟄居させられている。 永享4年、一条兼良邸で闘鶏が行われ、多数の人々が見物に訪れた。そのため義教の行列が通ることが出来ず、激怒。義教は闘鶏を禁止し、京都中のニワトリを洛外へ追放した。 義教は側室日野重子の兄である日野義資に対して青蓮院門跡時代から恨みを持っており、将軍に就任すると義資の所領を没収し、謹慎させた。永享6年、重子が子(後の足利義勝)を産むと、叔父になる義資のもとに祝賀の客が訪れた。これを不快に思った義教は訪れた客すべてを処罰した。さらに6月8日には義資が何者かに斬殺され首を取られた。犯人については明らかにならなかったが、義教の討手であるという噂が流れた。この噂をした参議高倉永藤は硫黄島へ流刑となった。 比叡山根本中堂の炎上に関する噂をすることを固く禁じ、その禁に触れた商人は斬首された。 酌の仕方が下手だという理由で侍女(少納言局)は激しく殴られ、髪を切って尼にさせられた。 説教しようとした日蓮宗の僧日親は、灼熱の鍋を頭からかぶせられ、二度と喋ることができないように舌を切られた。 猿楽においては、音阿弥を重く用いる一方で、世阿弥を冷遇して佐渡へ配流した。 これにとどまらず「献上された梅の枝が折れた」「料理がまずい」といった些細な理由で庭師や料理人を罰したことが当時の記録に数多く記されている。 永享6年(1434年)6月、中山定親は日記『薩戒記』において義教に処罰された人間を数えたてているが、公卿59名、神官3名、僧侶11名、女房7名が処罰されたとしている。中には日野西資子といった天皇の生母や、皇族、関白なども含まれる。斎木一馬は義教の全統治期間ではこの2倍に上るものが処罰されたとしている。なお、これらの数には武家や庶民は含まれておらず、総数は相当数に上ると見られている。 これらの事跡は義教が暴君で、恐怖政治を志向したことや、嗜虐性を有していた事を示す逸話として伝えられた。伏見宮貞成親王は『看聞日記』で、商人の斬首についてふれ「万人恐怖、言フ莫レ、言フ莫レ(永享七年二月八日条)」と書き残した。この「万人恐怖」を義教時代を象徴する一語と見ることも多い。